| ※ 本編には掲載されていない絵葉書です。画像、タイトルをクリックすると拡大して見ることができます。 |
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File Index | ||
| # 017 | 『観光の札幌』 | 今から 70 年以上も前、札幌の街を観光するための雑誌です ・・・・・ |
| # 016 | 武林写真館 | 是れ実に札幌写真界に於ける嚆矢にして ・・・・・ |
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| # 015 | 汽車博覧會 | ちょっと変わった博覧会です ・・・・・ |
| # 014 | 6 月 1 日 | 藻岩山の 「 山開き 」 です ・・・・・ |
| # 013 | 謹賀新年 | 年賀状の絵葉書 ・・・・・ |
| # 012 | 地図の絵葉書 | 絵葉書サイズの札幌市 ・・・・・ |
| # 011 | 南満州鉄道株式会社 | たった一枚の海外の絵葉書 ・・・・・ |
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| # 010 | 札幌まつり | 明治 12年からの恒例行事 ・・・・・ |
| # 009 | 橇美人 | 開陽亭の前で記念写真? ・・・・・ |
| # 008 | 10 月 14 日 | この日は何の日? ・・・・・ |
| # 007 | 明治40年代―小樽 | 文字通り、クローズアップです・・・・・ |
| # 006 | 北炭 | 北海道にとっては馴染みの深い「北炭」について少しばかり・・・・・ |
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| # 005 | 武徳殿 | 「武徳殿」と聞いて ピン とくるのは、昔の札幌医科大学キャンパスを知る人かも・・・・・ |
| # 004 | 中将湯 | TV-CM でお馴染み、「ツムラ」といえば「バスクリン」ですが、もともとは漢方の会社・・・・・ |
| # 003 | 海の日 | 「海の日」は今年から 7月の第三月曜日に・・・・・ |
| # 002 | 札幌農学校 | ここで問題です!! 札幌農学校と関係の深い建築家といえば・・・・・? |
| # 001 | 狐生擒隊 | 北方領土よりも遠い島で、キツネ、ですか・・・・・ |
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| File #017 | 『 觀光の札幌 』 | BACK |
奥付けには、" 昭和 12 ( 1937 ) 年 1 月 20 日 札幌觀光協會 発行 其水堂 金井印刷所 印刷 定價 金參拾銭 " とあります。
| File #016 | 武林写真館 | BACK |
日本における写真技術の発達は、幕末の開港場であった長崎・横浜・箱舘で、
この木津幸吉から写真術を学んだのが田本研造 ( 1832 〜 1912 ) です。
田本は 1869 ( 明治 2 ) 年に木津が上京した際にはその写真資材を譲り受けて写真場を設け、1871 ( 明治 4 ) 年 8 月 20 日付で開拓使の御用写真師となり、同年 8 月〜 9 月にかけて札幌を中心に開拓の記録写真を撮影、翌 1872 ( 明治 5 ) 年 3 月 29 日には開拓使凾館出張所から全 158 枚の写真が明治政府に提出されています。
吉 ( 1845 〜 1911 亀田郡大野町 出身 ) でしたが、
武林盛一 ( 幼名 亀蔵 ) は 1842 ( 天保 13 ) 年 1 月 16 日、陸奥國弘前に生まれました。しばらくして母を亡くした亀蔵は廻船業 滝浦萬五郎の養子に入り、萬五郎の改姓にともなって武林姓を名乗ります。* 鶏卵紙 ・・・ 当時使われていた印画紙の代表的なもので、食塩で溶いた卵白を塗って乾燥させた後、 硝酸銀で処理したもの。原板(ネガ)と重ねて太陽光で焼付けを行ないました。 インターネットで検索すると、 「古写真オークション」から「作り方」まで様々な情報にふれることができますが、 なかなか実物を目にすることは少ないと思います。 古写真や歴史ものを扱った古書店で尋ねると見ることができるかもしれません。 このサイトでは、本編 [ 函館 #06 163 〜 165 ] が台紙に貼られた鶏卵紙のものです。 ( サイズの関係でグレースケールにしてありますが ・・・ )
ここでもう一人の人物が登場します。* 札幌大火 ・・・ 明治 40 年 5 月 10 日 午前 2 時頃、南 3 条西 1 丁目 ( 狸小路 1 丁目 ) の 「 共益商館 」より出火し、南 1 〜 3 条、西 1 〜 4 丁目の 379 戸を焼失 焼死者 5 名 負傷者 25 名 札幌では明治 25 年 5 月 4 日に次いで二度目の大火。
| File #015 | 汽車博覧會 | BACK |
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* 「 下富良野 」 は現在の富良野駅です。 「 8 月 25 日 」 については小樽新聞の記事に詳細が掲載されていますが、 それによると、24 日の釧路会場終了後、翌 25 日早朝 5 時に釧路を出発し、午後 4 時 50 分に旭川到着、 休憩をはさんで午後 5 時 7 分に栗山に向けて出発、午後 9 時 45 分に栗山到着となっています。 |
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| 『 小樽新聞 』 明治 43 年 8 月 3 日 |
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| 『 小樽新聞 』 明治 43 年 8 月 4 日 ( 紀念絵葉書 甲號 ) |
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| 『 小樽新聞 』 明治 43 年 8 月 4 日 |
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| 『 小樽新聞 』 明治 43 年 9 月 2 日 |
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| 『 小樽新聞 』 明治 43 年 9 月 7 日 |
| File #014 | 6 月 1 日 | BACK |
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| # 01 藻岩山々開ニ参詣者登山ノ状況 |
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| # 02 藻岩山麓ヨリ登山ノ光景 | # 03 藻岩山頂ヨリ参詣者下山シテ中腹ニ至ル |
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| # 04 藻岩山頂ノ石造觀音堂 |
| File #013 | 謹賀新年 | BACK |
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| # 01 第一瀧本旅館 |
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| # 02 鈴木煉瓦製造場 ( 裏 ) |
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| # 03 鈴木煉瓦製造場 ( 表 [ 宛名面 ] ) |
| File #012 | 地図の絵葉書 | BACK |
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| File #011 | 南満州鉄道株式会社 | BACK |
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卒業設計 「A BAZZER」 『東京帝國大學工學部建築學科卒業計畫圖集』 木葉會 編 洪洋社 発行 昭 3.3 |
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南満州鉄道株式会社長春事務所 『建築世界』 第六巻 第二号 口絵 建築世界社 発行 明 45.2 |
| File #010 | 札幌まつり | BACK |
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| 札幌神社祭典ノ光景 |
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| 札幌神社大祭 第二區山車 |
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| 官幣大社札幌神社御祭典 神輿渡御 其一 | 官幣大社札幌神社御祭典 神輿渡御 其二 |
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| 官幣大社札幌神社御祭典 神輿渡御 其三 | 官幣大社札幌神社御祭典 北海道廰内御祭詞 |
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| 官幣大社札幌神社御祭典 三吉神社前ノ山車 | 官幣大社札幌神社御祭典 北一条通ノ山車 |
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| 官幣大社札幌神社御祭典 停車場通ノ夜景 | 官幣大社札幌神社御祭典 競馬 |
| File #009 | 橇美人 | BACK |
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| ( 札 幌 ) 橇 美 人 View of Otaru at Hokkaido |
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今回、表紙の写真を「橇美人」というタイトルの絵葉書に入れ替えました。(モノクロでは単調なのでセピア調に加工してあります) この絵葉書については、じつは今までに何度も取り上げようと思ったことがあったのですが、タイトル表示が間違っていると思われるため、それらがはっきりしてから・・・・・と、ずっと考えていました。 上の写真でもすぐにおわかりになると思いますが、タイトルには、 「 ( 札幌 ) 橇美人 View of Otaru at Hokkaido 」 とあります。 この絵葉書に掲載された写真について、「札幌」か「小樽」か、ずいぶんと悩んだのですが、このたび、関係者の方々のご協力によっていろいろなことがわかりましたので、このコーナーで取り上げることとしました。 この絵葉書の中でただ一つだけ手がかりといえるのは、右側の男性が身につけている法被の襟に書かれた「開陽亭」の文字です。 ここで「開陽亭」について少し振り返ってみましょう。 明治初年 (一説では安政年間) に小樽で創業したとされる「魁陽亭」は、明治 29 (1896) 年 4 月 27 日の深夜に出火した「住ノ江大火」で灰燼に帰します。しかし翌月には仮普請で営業を再開し、その後、本建築も竣工して、9 月 19 日より新築開店をむかえました。この再興にあたっては、「宮松コウ」が函館から来樽してこれを引き受け、名称も「開陽亭」とあらためています。これが襟に書かれている「開陽亭」です。 その後、明治 38 (1905) 年に終結した日露戦争による好況などで賑わい、また、翌 39 年 11 月 16 日には、日本郵船会社小樽支店で開かれた「日露国境劃定会議」(11月13日) のあとの祝宴が二階大広間で開かれています。大正時代に入ると、第一次世界大戦 (大正3年─1914) の影響で再び好況がおとずれ、小樽色内の銀行街が「北のウォール街」と呼ばれた頃にはもっとも賑わったといいます。昭和に入ると「開陽亭」は「海陽亭」と名前を変えます。時節がら、軍人の利用などが多くなり、終戦直後は一時、駐留のアメリカ兵などで賑わったこともあったそうですが、その後は本来の落ち着きと静けさを取り戻し、現存する道内最古の老舗料亭として現在に至っています。 ここで話を元に戻しましょう。 はじめの絵葉書の写真が、「札幌」なのか、それとも「小樽」なのか・・・・・。 この疑問につきまして、このたび「海陽亭」の 宮松 忍 様からご教示を頂きました。それによりますと、まず、撮影された場所は小樽。しかも海陽亭の前ではないか、とのことです。宮松様の先代のご当主 (お父様) はご健在で、札幌の「海陽亭」にお住まいだそうですが、写真の背景に見えている塀に見覚えがあるそうで、まず間違いなく大正期の「開陽亭」であるとのことです。さらに、「開陽亭」の法被をまとい、ベレー帽をかぶった右側の男性は、当時、開陽亭の「車係」として勤めていた 三浦志郎 という人物に顔がそっくりだ、とのこと。また、志郎の弟は、やはり開陽亭で当時板長をつとめていた 三浦 力 という人物で、共に他界するまで海陽亭に勤めてくれた恩人だそうです。 左側の芸者とおぼしき女性の素性は不明でしたが、この写真については、 「当時車係の志郎が、芸者を送り迎えする様を開陽亭の入口付近で撮影したもの」 ではないか、とのことでした。 今回のことで、「海陽亭」の 宮松 忍 様にはたいへんお世話になりました。 なお、LINK のページに「海陽亭」 http://www.kaiyoutei.jp/ を追加致しました。 昭和 60 年、小樽市の歴史的建造物 第 2 号にも指定された、北海道を代表する老舗料亭です。ぜひ一度ご覧下さい。(H15.11) ※ この File #009 につきましては、宮松様のほか、 『流芳後世 おたる 海陽亭』(北海道建築士会小樽支部 創立四十周年記念誌 平成4年) を参考とさせて頂きました。 |
| File #008 | 10 月 14 日 | BACK |
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| 明治四十三年五月廿八日 札幌鐵道工場・苗穂停車場 開始祝賀會紀念 |
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明治 5 (1872) 年 9 月 13 日、わが国ではじめて新橋 (汐留) 〜 横浜 (桜木町) 間に蒸気機関車が走りました。アメリカから招かれた御雇い外国人 R. P. ブリッジェンス の設計で新築されたばかりの新橋停車場・横浜停車場間を、イギリス製の機関車と客車が走ったのです。この日本最初の鉄道は、明治 14 (1881) 年 5 月 8 日には新橋横浜間の全線が複線化されています。# 一方、"♪ 汽笛一声新橋を 〜" で有名な鉄道唱歌ですが、その汽笛がこだましてから二年後の明治 7 (1874) 年 5 月 11 日、大阪 〜 神戸 間に鉄道が開通、さらに明治 9 (1876) 年 9 月 5 日には大阪 〜 京都 間が開通して神戸 〜 京都 間が鉄路で結ばれました。日本で二番目の鉄道です。 ここでいよいよ北海道の登場となります。 開拓使設置以来の懸案であった交通網整備。その頃すでに注目されていた幌内産出の石炭を、手宮の港からどうやって運び出すか。これに対して明治政府は 150 万円を "炭鉱の開墾" という条件つきで用意しました。そこで開拓使は明治 11 (1878) 年 10 月に「煤田開採事務掛」を設置し、鉄道の建設計画に着手、アメリカからやってきた御雇外国人 J. U. クロフォードを顧問に迎えて工事に取り掛かります。 こうして明治 13 (1880) 年 11 月 28 日、手宮 〜 札幌 間の鉄道が開通しました。 日本で三番目の鉄道の誕生です。 その後、明治 15 (1882) 年 11 月には札幌 〜 幌内が開通して手宮と幌内が結ばれ、明治 18 (1885) 年 12 月には手宮機関庫も完成しました。現在、「北海道鉄道記念館」として一般公開され、第六号機関車の「しづか」などが復元保存されています。(第一号「義経」は兵庫鷹取工場、第2号「弁慶」は東京交通博物館で保存) ところで、この「しづか」の復元作業は札幌の苗穂工場で行なわれました。 苗穂工場は、明治 42 (1909) 年 12 月 8 日に鉄道院 札幌管理局 札幌工場 (大正 4 年 4 月に苗穂工場と改称) として設立されました。また工場南側に隣接して苗穂停車場が明治 43 (1910) 年 5 月 16 日に開業しています。(本当は苗穂工場の開設にあわせて開業する予定でした) これを記念する祝賀会も開催されましたが、そのスタンプが上の絵葉書に見えています。 現在の JR 苗穂工場内には「北海道鉄道技術館」がありますが、これは明治 43 年に建てられた煉瓦造倉庫 (用品庫) を展示資料館として改装したものです。工場内では最古の建物で、「さっぽろ・ふるさと文化百選」にも選ばれています。毎月、第 2、第 4 土曜日に開館していますので是非ご覧下さい。(開館時間 13:30 〜 16:00) 苗穂工場では、毎年 10 月 14 日の「鉄道記念日」にあわせて、工場の一般公開を行なっています。実際に機関車の車輪やエンジンが作られている現場を見ることができる一大イベントで、全国から多くの鉄道マニアも訪れます。今年の一般公開は 10 月 11 日に行なわれました。 そして、今回のタイトルともなっている「10 月 14 日」。 わが国最初の鉄道、新橋 〜 横浜 間が全通した明治 5 (1872) 年 9 月 13 日は旧暦の日付けですが、この年の暮、同年 12 月 3 日を「明治 6 (1873) 年 1 月 1 日」とする太陽暦 (新暦) が採用されます。「 9 月 13 日」は「10 月 14 日」と改められて、大正 11 年 10 月、この日が「鉄道記念日」と制定されました。(H15.10)
# じつは、「軌道」という意味で、日本で最初のものが北海道に存在していた。茅沼炭鉱で掘り出した石炭を海岸まで運び出すため、木製鉄板張りの軌道を敷いて、ブレーキを装備した大型トロッコを用いていた。坂道の部分では滑車を通して実車と空車を結び上下させたという。この軌道も明治 15 年には鉄製のレールへと変わり、炭鉱も昭和 39 年に閉山となった。
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| File #007 | 明治40年代―小樽 | BACK |
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| 小樽 / #132 |
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上の写真は 小樽 #132 で紹介したパノラマ写真の一枚で、絵葉書ではありません。 本編でも触れておきましたが、これは市販されたものではなく、この写真を撮影した写真館が保存用として制作したものではないかと考えられます。折りたたみ式の台紙に生写真が直接貼り付けられたアルバムで、奥付などもありませんが、明治末期における小樽市内の様子を知ることのできる貴重な資料といえます。 (残念ながら手放してしまいましたが・・・) 今回はこの写真について少し・・・・・。 写真内の白線は説明用に追加したものですが、その白線に囲まれた部分を拡大したのが下の写真です。
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* 上の写真を見ながら読んでいただきたいと思いましたので、説明文をインライン・フレームとしてあります。 お手数ですが、そのままの位置でスクロールしながらどうぞ。(^^ゞ |
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いかがですか。 明治39年の磯野商店倉庫があって明治44年11月の清水合名会社が写っていない写真。 それともう一つ。最初の写真をよく見ると港の中に防波堤がありますが、これは本編でも触れた通り、初代小樽築港事務所長 廣井勇の設計によって 明治41年 5月に完成した北防波堤です。つまり、その間に撮影されたパノラマ写真の一枚ということになります。 「明治40年代―小樽」――――― 表題のタイトルはこんな理由から付けました。 当時の小樽の街を、写真の中で散策することができたでしょうか。 ところで話は変わりますが、先ほど登場した「海猫屋」――――― 。 ご存知の方々も多いと思いますが、若者に限らず、お年寄りなどにも人気の小樽を代表するスポットです。このたび LINK のページにも追加させていただきました。 この建物は明治39年に建てられた磯野商店の倉庫ですが、磯野商店はこの色内町で海陸物産商店のほか、漁業、農業、倉庫業などを営んでいました。 主人の磯野進は明治 5年、新潟県佐渡郡両津町に生まれています。明治23年、現 中央大学の前身である東京法学院 (その前身は英吉利法律学校。明治22年改称) を卒業後、30年には小樽へやってきます。32年の区制実施とともに区会議員となり、36年からは商業会議所議員として副会頭1期、会頭2期をつとめました。 プロレタリア作家 小林多喜二は、大正13年に小樽高商 (現 小樽商大) を卒業し拓銀小樽支店に就職しますが、その彼が中央公論に発表した小説「不在地主」は、磯野が富良野郊外に所有していた農場で起きた小作争議がモデルとなったといわれています。 一枚の写真でさえも、見方によってはいろいろと考えさせられることがあります。 歴史的な見方からすれば「絵葉書」はさまざまな情報の集合であって、これだけ技術や文化の進んだ現代でも、そこから得られるものは限りないと言えます。(H15.8) |
| File #006 | 北炭 | BACK |
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| 「小樽高架全景 其一」 |
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この絵葉書には小樽の日本郵船支店裏を通る鉄道手宮線の様子が写し出されています。 郵船会社の裏側が見える絵葉書は少なく、そういう意味では貴重なものといえるかもしれません。社屋の前方にはたくさんの倉庫が建ち並んでいますが、このあたりは、明治20年代に倉庫建設のために用地を購入したところです。 写真ではよくわかりませんが、これらの倉庫群に囲まれて艀の積卸しのための船入澗が設けられていました。( 昭和36年には埋め立てられますが・・・)
ところで、この絵葉書と似たデザインのものが他にもありますが、もうご覧になりましたか。 (◆幾春別 1/1 ◆江別 10/10 ◆夕張 1/9 ◆夕張 2/9 などなど・・・) 手がかりとなるのは絵葉書の左下に入っているマークですが、これは、1889 (明治22) 年11月、それまでの政府経営による幌内鉄道・幌内炭鉱などの払い下げを受けて創業した「北海道炭礦鉄道」の社章です。 つまり、" 北炭 (一般にはこうよばれています) シリーズの絵葉書 " というわけですが、夕張・空知両炭鉱の開発や室蘭・空知・夕張各線の新設など、北海道とはたいへん由縁の深い会社です。 1906 (明治39) 年の「鉄道国有法」によって同社の鉄道は買収され、社名を「北海道炭砿汽船」と改名、事業主体は炭鉱業と船舶回漕業に移りますが、その後、戦禍による船舶の喪失などから 1942 (昭和17) 年に三井船舶へ譲渡し、石炭の輸入販売などを中心として現在に至っています。また社章も当時とほとんど変わっていません。 北海道では現在、夕張鉄道 によって 夕張〜新札幌 間に 夕鉄バス が走っていますが、この会社は、1921 (大正10) 年に炭砿汽船、三井合名、宮内省などの協同出資によって設立されたものです。 話は変わりますが、上に示した四枚の絵葉書のうち、江別 10/10 には「野幌煉瓦場」と説明があります。 江別におけるレンガの製造は、1891 (明治23) 年の江別太煉瓦石工場が始まりといわれていますが、写真の「野幌煉瓦場」は 1898 (明治31) 年に「北海道炭礦鉄道」が始めたもので、野幌の煉瓦工場の中では最も古い方と言われています。当時は、夕張鉄道線から野幌停車場に釜の燃料である石炭が直接運び込まれていました。 野幌産の煉瓦はさまざまな建築に利用されましたが、CLOSE UP のコーナーで紹介した「旧日本銀行小樽支店」などにも用いられています。 ( DOWNLOAD のコーナーで紹介した PDF ファイルをご覧ください) 三越呉服店写真部製作による、これら「北炭シリーズ」の絵葉書は、一つの企業の歴史も物語っていることになります。(H15.7) |
| File #005 | 武徳殿 | BACK |
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| 「大日本武徳会北海道支部 武徳殿」 |
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ここに掲載した絵葉書は、現在の札幌医科大学附属病院のところに建っていた「武徳殿」の外観及び内部を写したものです。この建物は、北海道庁警察部内にあった大日本武徳会北海道支部が、昭和 6年、有志からの醵金をもとに南 2条西16丁目に建設したもので、弓道場も併設されていました。
のスタンプがあります。 (右図を参照)| File #004 | 中将湯 | BACK |
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| 「開道五十年北海道博覧会第一会場正門通り」 |
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上の絵葉書をよく見ると「開道五十年北海道博覧会第一会場正門通り」(札幌南一條) とあります。 開道五十年記念北海道博覧会は、札幌中島公園を第一会場、北一条西四丁目の工業館を第二会場、そして小樽区水族館を第三会場として開催されました。その状況を伝える絵葉書も相当数が発行されています。 博覧会の会期は 1918 (大正 7) 年 8月 1日 〜 9月19日 で、期間中に 142万人もの来場者を数えました。建物の総数は59棟に及び、道内からだけでも 2万点をこえる出品があったといいます。この博覧会の開催にあわせて馬鉄が路面電車に変わるなど、札幌の市街も大きく変貌を遂げていきます。また当時の展示館やシンボル塔などの設計には、曽禰中條建築事務所の一流のデザイナーたちが参画したことも注目すべき出来事でした。 ところで、北海道における博覧会の歴史は「北海道物産共進会」と密接なつながりがあります。 「北海道物産共進会」は明治20年代からたびたび開催されていましたが、初めて開かれたのは 1887(明治20)年で、会場は中島公園でした。このころから中島公園は、博覧会の会場として次第に整備されて行きます。現在、貸しボートなどで賑わっている池も、もとはといえば、明治のはじめに開拓使工業局が木材の運搬用につくった貯木場で、博覧会の開催中は釣り堀やボート乗り場だったところです。 話を絵葉書に戻しましょう。 上の絵葉書に写し出されているのは、現在の都心部、四丁目十字街から駅前通りを南 (ススキノ方向) に見た様子です。 正門通りとあるのは、この通りの突き当たりが中島公園 (第一会場) で、博覧会の正門があったためです。 右手前の建物は秋野札幌支店 (現在の4丁目プラザのところ) という薬局ですが、屋上の看板を見てください。
看板には " 中将湯・津村順天堂 " とありますが、ご存知の通り「津村順天堂」は、あの「バスクリン」で有名な「ツムラ」のことです。津村順天堂はたいへん歴史が古く、今年で創業110周年を迎えました。 1893 (明治26) 年 4月、初代津村重舎が東京日本橋に「中将湯本舗津村順天堂」の看板を掲げ、奈良・藤村家に代々伝えられてきた婦人病の妙薬「中将湯」の販売をはじめますが、「中将湯」は現在でも販売され続けているのをご存知ですか。 その「中将湯」のシンボルともいえるものが「中将姫」マークで、現在もパッケージに使用されています。 絵葉書の一部分を拡大したものが右の写真ですが、いかがでしょうか。 なお、「ツムラ」は 1897 (明治30) 年、生薬による「浴剤中将湯」を商品化しますが、さらに改良を加え、1930 (昭和 5) 年 6月に「バスクリン」を発売します。150 g 入りの缶で 五十銭、ジャスミンの香りだったそうです。(H15.7) |
| File #003 | 海の日 | BACK |
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| 函館 / #041 明治天皇御上陸記念碑 |
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国民の祝日 「海の日」、今年は7月21日でしたが、皆さんどのように過ごされましたか。 平成13年6月の " 国民の祝日に関する一部改正 " ( 通称 ハッピーマンデー法 ) により、 従来7月20日であった「海の日」は、平成15年度から7月の第3月曜日となりましたが、 その由来などを少し・・・。 「海の日」の前身となった 「海の記念日」 は、昭和16年に制定されました。 毎年 7月20日であったこの日が、実は北海道と所縁が深いのをご存知でしょうか。 今から 120年以上も昔の 1876 (明治 9) 年。ちょうど札幌では、開拓使が麦酒醸造所の建設に着手したり (6/27)、W.S.クラーク博士が札幌農学校の教頭として来札 (7/31) する頃です。 その年の 6月20日、明治天皇は東北巡幸のため東京を出発します。 そして、東北の巡幸を終えた 7月16日、天皇は青森から函館の旧税関へ上陸し、市内や桔梗、七飯などを視察、すべての日程を終え、7月18日に函館港を出発、二日後の 7月20日、無事横浜港に到着 しました。 これを記念して制定されたのが 「海の記念日」 です。 その後、1996 (平成 8) 年に 「国民の祝日に関する法律」 (祝日法) が改正され、7月20日を 「海の日」 としました。 「海の日」 を理解するにはこれで十分ですが、ここで "オマケ" を一つ。 明治天皇上陸の舞台となった函館・・・・・。 観光客たちが散策する西部基坂下の海上自衛隊前に 「明治天皇御上陸記念碑」 があります。 ( 函館 / #041 ─── 上の絵葉書。函館にお住まいの方はご存知だと思います。) この碑は文字通り、明治天皇の上陸を記念して昭和10年に除幕されました。 後ろに見えているのは、明治天皇の上陸した旧税関跡に、明治44年に新築された函館税関です。 ( この建物は昭和46年に取り壊されています ) 旧税関は明治 8年に新築されていますが、「函館 #164」の中で開拓使庁からまっすぐ伸びる基坂のつき当たりに見えるのがその建物です。 ・・・・・が、この碑の別名を 「三蹤碑」 と呼ぶのをご存知でしょうか。 じつは、函館の街は、三度、明治天皇を迎えています。 1876 (明治 9) 年の上陸と乗船で二回ですが、その 5年後の 1881 (明治14) 年 7月30日、明治天皇は再度、東北・北海道巡幸のため東京を出発、この時は、8月30日に小樽へ上陸し、行幸の行在所である札幌豊平館に到着されました。 ( 豊平館は開拓使が作った洋造ホテルとして知られていますが、本館部分は 1880 (明治13) 年11月に竣工し、行幸直前に鉄柵・門・造園などを含めた全工事が終了しています ) その後、9月 2日に札幌を出発、陸路、千歳・白老を経て室蘭より御召艦迅鯨に乗船され 9月 5日 森港桟橋 に上陸されました。 森港桟橋は、1872 (明治 5) 年 3月に開拓使とアメリカ人技師ワーフィールドによる函館札幌間の新道建設が亀田一本木から始まり、同年 7月、森までの 11里 17町が完成したのを受け、同月に室蘭への渡航を目的に着工されました。 翌1873 (明治 6) 年11月には、全長百四十一間四尺、幅員三間三尺の桟橋が完成しますが、橋脚の防腐剤には近郊の鷲ノ木村で湧出する石油が用いられたそうです。 1893 (明治26) 年 4月の 青森 ─ 函館間航路の室蘭延長によって、室蘭 ─ 森間の航路が廃止されますが、昭和11年11月には史蹟に指定、昭和14年 3月、茨城産の白御影石で高さ 10m の上陸記念碑が、海岸より 45m の地点に建立 されました。 この碑は今も残っていて、北海道観光などで札幌から函館に向かって JR に乗車すると、列車の窓から左手の海の中に見えてきます。 ( ほんのわずかな時間しか見えていませんので、うっかりすると見落としてしまいそうですが・・・・・ ) 明治41年 6月には室蘭 ─ 森間の定期航路が一時復活しますが、昭和 3年 9月の長輪線開通によって結局廃止されてしまいました。
明治天皇は、9月 5日の上陸後、馬車で阿部重吉経営の阿部旅館に到着し宿泊をします。その建物はのちに焼失し、庭園だけが残りました。「行在所」の木札、下賜された銀盃は阿部家に保存されています。右の絵葉書は、その 「森行在所址」 を写したものですが、左手にのちの阿部旅館が見えています。 翌 6日には馬車で函館に向かい、翌 7日に函館から乗船して離道しました。 これら三度の光栄をたたえて 「三蹤碑」 と呼ばれています。 函館観光の折には、ぜひ歴史に触れてみてください。(^^) (H15.7) |
| File #002 | 札幌農学校 | BACK |
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| 札幌 / #011 | ||||||
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じつは、以前からずっと探し続けている一冊の本があります。 少し長くなりますが、話題提供も兼ねながら、ここで紹介したいと思います。 本の題名は 『葭の影』 ———— 。 1935 ( 昭和 10 ) 年 7 月に作家 宮本百合子 の母、中條葭江 ( 昭和 9 年 6 月逝去 ) の遺稿集として出版されたものです。昔の話なので記憶が定かではありませんが、10 数年前、個人的にお付き合いをしていた、札幌では老舗の古本屋 (残念ながら今はありません) の目録に、2 点同時に掲載されてすぐに電話を入れたのですが、先客があってもちろん売れたあと。大変残念な思いをしたことを覚えています。今でも入手したいと思っている本のうちの一冊です。 前置きはこれくらいにして、ここで少し、本とその背景について ・ ・ ・ ・ ・ 。
では、まずはじめに一人の建築家にスポットを当ててみましょう。中條精一郎 ( 1868 〜 1936 ) ———— 。 日本の近代建築を少し勉強したことのある人であれば、 かならず記憶に残っている名前ですが、 皆さんはご存知ですか。 明治の新時代が始まり、明治政府はその模範を海外に求めました。 当時 「建築」 に最も近い官庁と言えば 「工部省」 (明治 18 年廃止) ですが、その中に 「工学寮」 という技術者養成機関がありました。しばらくして 「工部大学校」 と名称を変えますが、急激な近代化による技術者不足を補う目的で設置された 「工部大学校」 からは、明治 12 年に最初の卒業生が世に出ました。現在の東京大学工学部の第一期生です。 当時、建築学科は 「造家学科」 と呼ばれていました。その後、工部省の廃止と東京大学工芸学部との合併により 「帝国大学工科大学」 と名前を変えましたが、その明治 31 年造家学科卒業生の中にいたのが 「中條精一郎」 です ( この翌年から建築学科と名前を変えます )。 のちに第一期生の曽禰達蔵と、戦前では最大と言われた設計事務所 「曽禰中條建築事務所」 を開設し、また建築士会や建築士法制定のために生涯をささげた人物です。彼は明治 31 年 7 月に帝国大学を卒業すると、翌 32 年 5 月に文部技師として 札幌農学校内の文部省建築掛出張所長 を命ぜられ、またその年の 10 月には 「札幌農学校土木工学科造家学講師」 を嘱託され、札幌に赴任してきます。 北海道大学の前身である 「札幌農学校」 は現在の 「時計台」 付近に 1876 ( 明治 9 ) 年に開校しますが、 明治 31 年に移転が決定 し、当時、付属農場のあった現キャンパスの位置に校舎群を新築することになり、中條が設計を担当することとなりました。 彼はここで農学部本館をはじめとして、農芸化学及物理学教室、図書館 #012 ( 明治 35 年竣工 現存 )、昆虫及養蚕学教室 #013 ( 明治 34 年竣工 現存 )、動植物学教室 #014 ( 一部植物園内 宮部金吾記念館として移築 )、農業経済学及農政学教室を設計しています。
農学部本館のほか、今も現存する 昆虫及養蚕学教室 や 図書館 などが見えています。 もうお気付きだと思いますが、その彼の妻が 「中條葭江」。 女流作家の 宮本百合子 ( 昭和 7 年 宮本顕治と結婚 ) は彼の娘です。 宮本百合子全集などを読んでいくと、父、精一郎のプライベートでのできごとが数多く登場します。 (たとえば、「わが父」、「父の手帳」、「父の手紙」、などなど。) 百合子自身も作品の中で書いていますが、彼女は 1899 ( 明治 32 ) 年 2 月生まれ。 父親の仕事の関係で、生後 10 ヶ月から満 3 歳まで両親と札幌で暮らしています。 少し長々と書いてしまいましたが、まだ手にしたことのない 「葭の影」 にも当然 "中條" のことなどが登場してくるはずで、何とか実物を見てみたいと思っています。(H15.6) ※ このページの人物写真につきましては、以下の文献に掲載のものを使わせて頂きました。
◆ 『曽禰達蔵 中條精一郎 建築事務所作品集』 黒崎幹男 中條建築事務所 1939 |
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※ 札幌農学校改築教室予定圖へ
◆ この図は『覆刻札幌農学校』北海道大学図書刊行会 昭和50年 附録の「札幌農学校改築教室予定圖」で、
図は中條の筆によるものといわれています。 もとは 札幌農学校学芸会蔵版『札幌農学校』明治35年4月 東京日本橋裳華房 増補第三版 に折込まれた 挿図です。建築家としての中條精一郎を理解するための参考資料として引用させて頂きました。 |
| File #001 | 狐生擒隊 | BACK |
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| 道内 / 得撫 1/1 |
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"原田" は "原田商店" のことで、根室地区を中心に絵葉書を発行していたところです。 "波良多" と表記されているものもみられますが、同一のものかどうかは不明です。 "生擒隊" は、今はあまり使わない文字ですが、「 いけどり ・ たい 」 と読みます。 国後・択捉・歯舞・色丹の「北方領土四島」を含む千島列島は、北海道の東北端よりつらなる大小 25 の島々からできています。その一番南にあるのが 「国後島」、一番東の端にあるのはロシア "カムチャッカ半島" に対峙する 「占守島」 で、それらの全長は約 1,180 km にも及びます。昔、日本で 「クルムセ」 、ロシアで 「クリル」 と呼ばれていた島々が 「千島列島」 と呼ばれるようになったのは、明治 2 年に蝦夷地が北海道と改称されたときからです。 そして、その 「千島列島」 は三つの区域に分けられていましたが、この絵葉書の 「得撫島」 (ウルップ島) というのは、中部千島 18 島の最南端に位置します。北千島 (北部千島) は占守島を含む 5 島、南部千島は国後 ・ 択捉の 2 島です。 つまり、得撫島 と択捉島は隣り合った島ということになります。 じつは、1854年 (安政元) 12 月、帝政ロシアとの間に締結された日露和親条約 (下田条約) では、日本とロシアとの国境は、中部千島と南部千島との間、つまり択捉島と 得撫島 との間とされました。また樺太においては、共有領土として両国間に境界を設けなかったために紛争が絶えず、1875年 (明治 8) 5月、全権榎本武揚が中心となってクリルアイランド樺太交換条約を締結し、千島列島はすべて日本領土、樺太はロシア領土となりましたが、当時の我が国が全島を警備することはもちろん不可能なわけで、密漁なども絶えなかったそうです。 この絵葉書の中心はなんと言っても写っている三人の人物ですが、当時の絵葉書で、人間がカメラに向かってポーズをとったもの (?) は珍しかったので、取り上げてみました。 人物部分を拡大したのが下の写真ですが、皆さんは何を感じますか。(H15.5) |
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